ブタ。檻の中のブタ。抗生剤漬けのブタ。
しんどい。疲れている。
もっとも、本当に疲れているときは、パソコンを起動させる元気すらおきない。今日はまだマシな部類に入る程度の疲労だ。
食欲がない。すぐに眠くなる。まともに読書もできない。ストーブをつけるのも、止めるのも面倒だ。
大学時代だったら、ひたすら寝て過ごしていた。今は、働かなくては食べられないので、起きているしかない。
レディオヘッドの『OKコンピューター』、言わずもがなの名盤である。
楽曲を聴くと、機械化されている文明への批判にとってしまう人がいるかもしれないが、この作品は、そういう安易な文明批判をする人間に対する物言いではないだろうか。機械化されざるを得ない我々一般人の、檻の外からのらりくらりとお気楽な批評を我々に向かって垂れたがる、満たされた人間に対しての物言いだと思う。休日はのんびりと過ごし、仕事の日はひたすら会社の為に働き、貧乏人や無職やワーキングプアを見下している奴ら。
そういう奴ら、満たされて、明日への不安など殆どない人間に向かって、「お前ら、みんな檻の中の、抗生剤漬けのブタじゃねえか」と罵ってみせる。
貧乏人には、そういうふうに、充実している人間に対する、僻み、妬みを、常に抱いている。この自分だって、一応定職はあるが、非正規である。収入など、食っていくのがやっとである。毎日、地下鉄に揺られ、疲れている。
お気楽な人間ほど、現代社会を、上から目線で批判したがる。我々貧乏人は、次の給料日に振り込まれる金額のことが大切だが、金持ち連中は、毎日、電車に揺られる人間のことなど、目に入らない。
『OKコンピューター』は、現代批評のアルバムじゃない。社会に適合できない人間の、苦しい告白じゃなかろうか。「僕はアンドロイドじゃないけど、キチガイかもしれない」と告白している。俺は、この社会の歯車なんかじゃないけど、どうかしてしまっている。
ニュー・オーダー『ミュージック・コンプリート』。
冒頭の「レストレス(満たされない)」を聴くと、いつも泣きたくなる。死にたくなる。我々は、いくらでも欲しいものはあるけど、その為には金が要る。いくら必要なんだ。いくら必要なんだ、と問い詰められる。
けど、答えられない。思い切って「一億円くれ」と言ってやりたいが、非現実的な金額を答えられるほど、我々は恥知らずではない。この不況で苦しいなか、仕事に追われている現代で、そんなことを臆面もなく言える人間は、クズである。恥知らずである。ロクデナシである。
いくら必要なんだ、と問われても、答えられない。
いくら欲しいんだ、と訊かれても、答えられない。
「三億円くれ」とか答えられる人間を、心の底から軽蔑できる。クソ野郎だと思う。ろくに働きもしないで、そんなこと、答えられるか。
満たされない。満足できない。
これは、1965年に、ローリング・ストーンズが「満足なんかできない」と歌ったことと、まったく関係のないことじゃないと思う。
「サティスファクション」から50年後、ニュー・オーダーが作ったアルバムは、私たちの苦悩を見事に言い表している。ニュー・オーダーじたい、もう若くないけど、私はひどくこのアルバムを好きになったと記憶している。
本当に欲しいのは、もしかしたら安楽死なのかもしれない。
夏目漱石の『吾輩は猫である』の猫も、おしまいには死んでしまう。
ルトガー・ハウアーとハリソン・フォードの「ブレードランナー」の終わり、ルトガー・ハウアーは死ぬ。現在、もうそのレプリカントを演じた本人も、死んでしまった。
吾妻ひでおも死んだ。アレサ・フランクリンも死んだ。カーク・ダグラスもいなくなった。ホルガ―・シューカイ、鼓直、池内紀、水木しげる、田辺聖子、チェスター・ベニントンも、死んだ。
私たちは、死んでいないに過ぎない。でも、生きなければいけない。
『OKコンピューター』の終わりの曲「ザ・ツーリスト」(傍観者)で、秒速1000フィートで走る車に向かって、トム・ヨークは「スピードを落とせ」と歌う。
スピードを出し過ぎている車に、正気になれ、と言う。アンドロイドではないが、キチガイでもない。正気になれ、スピードを落とせ、と言う。
さて、夕食の準備をするか。